2012/01/24

Running as human nature.


『なぜ人は走るのか』トル・ゴタス 著 楡井 浩一 訳(筑摩書房) ★★★★☆ 
 Link(s): Amazon.co.jp / Rakuten Books

民俗学と文化史を専門にしているというノルウェー人の作家による著作で、サブ・タイトルに 'ランニングの人類史' って付いてる通り、人類と走ることの歴史について綴ったモノ。個人的には、前にレヴューした『BORN TO RUN 走るために生まれた』と対になってる印象かな。わりと淡々と事実を綴ってる感じなんで、文体とか本としてのテイストが似てるってわけでは全然ないんけど。

内容的には、古今東西の文明・社会の中で、人は何のために走り、その社会の中でどういう意味や役割があったのかについてまとめたモノで、なかなか興味深い内容なんだけど、個人的にすごく魅かれたのは、それ以前に、生物としてのヒトの進化とランニングがすごく密接に関係しているってこと。曰く、「走ることで人類は人間になった」と。これは、『BORN TO RUN』で触れられてた狩猟のハナシにもつながる部分なんだけど、ランニングの根源的な部分を探る上ですごく興味深い。

あと、もう 1 点、トップ・レヴェルの競技としてではなく、一般に広く行われる楽しみのひとつとしての、いわゆる 'ジョギング 〜 ランニング' の成立・発展の部分もすごく興味深いかな。トップ・レヴェルのランナーのすごさとかノウハウ的なハナシよりも、個人的にはランニングの文化的な側面のほうが興味があったりするんで。

まぁ、総合的には、読み物として特別凝ってるわけではないし、ランニングに対するモチヴェーションが著しく上がるとか、タイムが縮まるとかダイエット効果があるとか、そういう類いの本ではないけど、いろいろ重要な示唆に富んでるし理解は深まるかな。

まずは、上にも書いた「走ることで人類は人間になった」って部分について。まぁ、これ自体は実は本書のメイン・テーマではなく、どちらかというと大前提的に冒頭の部分で紹介されてる感じなんだけど。でも、個人的にはすごくツボな部分だったんで。

生物学者のデニス・ブランブルと人類学者のダニエル・リーバーマンが主張するところによると、200 万年前に人類が猿に似た祖先から進化したのは、アフリカのサバンナで動物を狩るために長い距離を走らなければならなかったからだという。気候が変動し、森という森のほとんどがサバンナに変わった結果、生活環境が様変わりする。新しい環境は、走る能力を持つアウストラロピテクス(猿人)に優位をもたらし、また時を経て、長距離を走れる骨格にとっても有利に働いたというのだ。もしそうだとしたら、走るという能力が人類の進化に果たした役割は大きい。言い換えれば、人類の祖先は、地上で生活せざるを得なくなり、骨格と身体が変化し、さらに解剖学的に言うなら、走ることで人類は人間になったことになる。
ブランブルとリーバーマンは、走ることが単に二足歩行の延長にすぎないという通説に異を唱えている。アウストラロピテクス(猿人)が二足歩行を始めたのは、450 万年前、まだ木から木へ飛び移っていた頃だ。当時もホモ(ヒト)属はすでに地上を歩いていたが、ホモ・サピエンス(現生人類)の出現までには、さらに 300 万年以上の時を要する。それまでの間、人類の祖先は、まだ人間とはあまり似ていないことを考えると、歩行能力が人類の進化に最も決定的な影響を与えたとは考えにくい。人間と比べると、アウストラロピテクスは、脚が短く、腕が長く、筋肉質で、猿に似た体つきだ。ブランデルとリーバーマンはこう述べている。「自然淘汰によって走るようにならなかったら、われわれは今でももっと猿に似ているはずだ」。
ふたりは、人体の 26 特徴を調べた。また、180 万年前から 4 万年前に生息していたと考えられているホモ・エレクトゥス(「直立人」という意味)の化石と、250 万年以上前の骨格の残骸が発見され、「人間の原型」とも称されることがあるホモ・ハビリス(「器用な人」という意味)の化石を比較調査した。人類を走る生物にしたのは、脚および足の腱、弾力のある関節、効率よく機能する足指だった。長い歩幅をとって、足が地面に当たる瞬間の衝撃を体で吸収する。バランス能力にも優れており、骨格と筋肉で体を補強したうえ、数 100 万の汗腺のおかげで過熱を予防できるので、人類の体はいっそう走りに適したものになった。
人類は、多くの種と比べて走るスピードは遅いが、発汗することで体温の上昇が抑えられるため、狩猟時に、足の速い動物の体力を消耗させることができる。訓練すれば、きわめて高い持久力を獲得できるから、暑い日に、レイヨウのような自分よりずっと足の速い動物を狩ることも可能になる。アフリカのブッシュマンは、今でも、レイヨウを過熱で倒れるまで追い詰め、やすやすと手に入れる。
走ることは、人類の本質的な特徴であり、人類はさまざまな場面でこの特性を生かしている。

ちょっと引用が長くなったけど、この部分はかなり興味深い。だって、「なぜ人は走るのか?」、もっと言うと「なんで人はわざわざランニングなんてするのか?」なんて問う以前に、そもそも「人類の祖先は走ることで人になった」「走るからこそ人なんだ」ってことなんだから。ある意味、「なぜ人は走るのか?」って質問自体が愚問になるってことなんで。

よく、ランニングをしない人に「なんでわざわざランニングなんて辛いことをやるのか、気が知れない」的なことを言われることは多いし、そういう人は、仮に一定の理解を示したとしても、「健康のため」とか「ダイエットのため」とか、何か合理的(打算的?)な理由を付けたがりがち。でも、実は、そもそもそういう次元のハナシじゃない、と。これは個人的にはかなりシックリくるし、大袈裟な言い方をすると「ファイナル・アンサーなんじゃね?」って思ったりもしたんで。

日本でもすっかりランニングが定着してきてて、それはそれですごくいいことだと思うんだけど、わりとその焦点がタイムとかダイエットとかノウハウ的な部分に集中してる感じの風潮には違和感があったりする。

個人的には、NIKE+ がアメリカで発売されたのをキッカケにランニングを始めて、2006 年の夏頃からってことになるのかな? まぁ、一時期よりは走る頻度が落ちてる(抑えてる?)んだけど、これまでにもランニング関連のエントリーはちょこちょこ書いてるし、走ること自体にあるプリミティヴな何かにはすごく興味があるし、魅了もされてるんで。

そうは言っても、やっぱり、「なんでやるんだろ?」ってプリミティヴな疑問を考えたことがないかっていうともちろんあるし、なかなか明確な答えは出せなかったりする。それこそ、「健康のため」とか「ダイエットのため」みたいな合理的な理由で自分を納得させたほうが楽なのかもしれないし。でも、なんかそれだけじゃないってこと自分で感じてるのも事実で、だから、もやもやするんだけど。まぁ、「好き」なことに合理的な理由なんてないし、納得する必要なんてないってのもひとつの真実なのかな? とも思うけど。

まぁ、そんなことを考える上で、なかなか示唆に富んだ内容だとは言えるんじゃないかな。読み心地だけじゃなくデザインなんかの部分も含めて、決して派手な印象ではないけど。

ちょっと変な順番になっちゃったけど、本書全体の内容について、ちょっと触れとこうかな。

原著は 2008 年に出版されてるんだけど、去年の年末に出版された訳書がベースにしたのは 2009 年出版の英語版の "Running: A Global History"(Link: Amzn)で、タイトル通り、世界のランニングの歴史が綴られている。

著者は冒頭の緒言でこんな風に書いてる。

世界のランニング史の完全版を書くことなんて、到底不可能だ。最古の時代については、史料はわずかしか残っておらず、そのわずかな史料もたいていは、真偽も知れない逸話をとどめているばかり。著者としては、ありったけのものを拾い集めて綴り合わせ、可能なかぎり厚みのある像をこしらえるよりほかない。
1800 年以降の時代になると、興味深い資料が豊富にあって、今度は、どれを選びどれを捨てるかという問題が生じてくる。
こういう本は、著者の時間的、空間的な拠点 ー 本書の場合、2000 年を少し過ぎた北欧ノルウェー ー の制約を受けてしまいがちだが、わたしは広く世界に目を向けるよう心がけた。また、これだけ大きなテーマの中から、長くての妙味のある話の糸を選り出すように努めた。それでもなお、本書は、スカンジナビアから世界を見るヨーロッパ人によって書かれているという色合いを帯びてしまっている。これは致し方ないことであり、出来事や登場人物の選択に著者の好みと心情が反映してしまうことも、やはり致し方ない。表題(原書タイトルは「ランニング ー ひとつの全世界史」)が示すとおり、本書はランニングの世界史というテーマに対するひとつの答え、つまり著者なりの答え以上のものではなく、それ以外のものを気取るつもりはない。

基本的には、こういうスタンスで、わりと淡々としたテンションで過去から現代という方向で、世界各地に残されている資料を分析しながら紹介しているモノで、古くは古代オリンピックから、世界各地の文明・社会の中で人が走ることがどういう意味を持ち、速く走れる人・長い距離を走れる人がどういう役割を担い、どのような存在として考えられてたいたかについて書かれてる。

世界的にいろんな場所で見られた例は「伝令」、つまり、通信手段としてのある種の職能集団だったみないなんだけど、インカ帝国のリレー形式の伝令集団が「交換する」って意味の「チャスキ」って名前で、これが「襷」に響きが似てて面白いなって思ったりした。インカ帝国の中心地だったクスコは標高 3500m なのにも関わらず、1600km を 5 日間でカヴァーしてたっていうから相当な走力。インカ帝国に限らず、ランナー集団は特殊な能力を持ったプロの職能集団として、どの社会でも一定の地位とリスペクトを得てたらしい。

あと、よく出てくるのが軍人。伝令自体も軍事目的の通信って意味合いもあったんだけど、歩兵が中心の時代には、特殊な移動手段を持ち、動物よりも確実に作戦を実行できる特殊部隊としてランナー部隊が用いられてたんだとか。他にも、古代ギリシャやローマの哲学者のランニングに関する考えとか聖書の中のランニングについての言及だったり、9 世紀頃の比叡山で修行として走ってた 'マラソン僧侶' とか、特にイギリスで盛んだった賭け事としてのランニングとか、なかなか興味深いハナシが多い。

ポイントは、ランナーはあくまでもプロだったってことかな。一部の特殊な能力を持った人が、その能力を活かせる職に就いてた、と。つまり、それ以外の一般の人間が、職業としてではない理由では走ってはいなかったってこと。まぁ、資料が残ってないだけって可能性はあるけど、普通の人々が走るってカルチャー自体が(まったくなかったかはともかく)一般的ではなかったらしいことはわかる。

近代的な意味でのランニングが確立されたのは、やっぱり測定技術が発達してから。つまり、正確な距離とタイムを測る技術が広く普及。それまでは、例え賭けのための大会等でも、あくまでも現場での勝ち負けが重要だった(故にそこには純粋な速さだけでなく、プラス・アルファとしてのエンタテインメントの要素もあったらしい)のに対して、正確な距離とタイムを測る技術が確立され、広く普及したことで、飽くなき記録への挑戦が始まった、と。

その後、短距離からマラソンまで、ランニングが競技として確立され、それに伴ってランニング技術やらトレーニング方法やら(ドーピングなんかも含めて)、どんどん発展していくことになるんだけど、そんな中から、いわゆる 'アマチュアリズム' の問題が 19 世紀末頃から語られるようになり、これはこれで「競技としてのランニング」の確立・発展のためにはかなり重要になってきたりする(まぁ、個人的にはそれほどツボな部分ではないんだけど)。

他にも、ランニング・シューズの発展の歴史の中で、アドルフ・'アディ'・ダスラー(ADOLF 'ADI' DASSLER)とルドルフ・'ルディ'・ダスラー(RUDOLF 'RUDI' DASSLER)兄弟のアディダス(ADIDAS)とプーマ(PUMA)のエピソードが出てきたり、女性ランナーがどのように市民権を得たかとか、駅伝という競技についてとか、社会主義政権下のランナーたちとか、エヴェレストの初登頂と同じ時期にイギリス人が 1 マイル 4 分の壁を破ったこととか、アフリカのランナーたちのハナシとか、ニュー・ヨーク・シティ・マラソンの設立と発展とか、アマチュアリズムの終焉とビッグ・ビジネス化とか、100m 10 秒の壁を破った白人ランナーがいないハナシとか、記録の限界(フランスのスポーツ医学研究機関の IRMES によると、2027 年頃に記録は限界に達するんだとか)のハナシとか、ランニングにまつわるいろいろなエピソードが紹介されてて、なかなか面白い。もちろん、『BORN TO RUN』に出てくるタラウマラ(Tamahumara)族のハナシも紹介されてるし。

上にも書いたけど、個人的にすごく興味があった「トップ・レヴェルの競技としてではなく、一般に広く行われる楽しみのひとつとしての、いわゆる 'ジョギング 〜 ランニング' の成立・発展の部分」もなかなか充実してる。現在のジョギング 〜 ランニングを最初に提唱した(っていうか、実践してた)のが実はニュー・ジーランド人のアーサー・リディアード(ARTHER LYDIARD)で、「鍛えろ、だが、やりすぎるな(Train, not strain)」ってモットーを唱えた '楽しいランニング' としてのジョギングを、ニュー・ジーランドに遠征したオレゴン大学のコーチのビル・バウワーマン(BILL BOWERMAN)がアーサー・リディアードから学んだことでアメリカに、そして世界に広まることになるんだけど、この辺りからのジョギングの成立に関する部分はやっぱりすごく面白かったかな。

ビル・バウワーマンはアメリカに戻った後、1967 年に『ジョギング ー 年齢を問わない体力向上プログラム』を発行し、後に教え子のフィル・ナイト(PHIL KNIGHT)と共にナイキ(NIKE)を設立してランニング・カルチャーに大きな貢献を果たすことになり、それがベースになって現在の(決してプロではない人たちをランナーにした)ジョギング 〜 ランニングにつながるんだけど、著者が ‘(宗教にも近いような)いい意味での依存症' と呼んで言及してる現在のランナーたちの心理の部分も、ジョギング 〜 ランニングについて考察する上でなかなか興味深かったりする。

以下は、巻末部分に記された著者なりの見解の引用。

20 世紀半ばくらいまで、ランニングをする人たちとは、自分をいじめることに熱中する物好きな種族であり、ほとんどの人が気づいていないこと ー ランニングが深い精神的な満足を与えてくれること ー を発見した、不思議な人たちだった。その一方で、多くの医者がランニングを、心臓その他の臓器に有害な行為と見なしていた。1960 年代になってようやく、ジョギングが健康によく、飽食した人々が日々の運動不足を解消するために必要なものと認められ始めた。ランニングは、健康維持と体重の管理をめざすライフスタイルの一部となり、運動して過ごす、日々の楽しみの時間となった。喜びであり義務であり、さまざまな効果のある流行現象だった。
(中略)
ランニングには、魅せられるほど素朴な何かがある。子どもっぽい行為でありながら、大人がついはまってしまいやすいものであって、ランニングがもたらしてくれる開放感はどんな場所でも得られるが、新鮮な空気と自然環境によってさらに高められる。優れたランナーの走る姿には、走らない人にも訴えかける美しさがある。ランナーが "走る" という、誰にでも明らかな方法で大地を滑るように駆けていくときの、優美な躍動感と、筋肉な巧みな調和。人間は、ランナーのごとく動き、感じるべきなのだ。おそらくわたしたちは、結局はさほど進化しておらず、ほんとうに価値のあるものを失ってきたのだろう。
わたしたちは走り始めるたときに人類になったと、生物学者は考えている。たぶんわたしたちは、人類であり続けるために、大いに歩き、走らなくてはならないのだ。肉体的、精神的な機能を停止した、機械での移動を強いられる怠惰な生き物になってしまわないように。ランニングやウォーキングのような対角運動は右脳と左脳の連携を促し、それによって創造力という人間の中核をなす特性を高める、という研究結果がある。体を動かすことから得られる奥深い満足感は、どんどん機械化されていく世界で、人という生物の本質へ意識を向けさせてくれる数多くのきっかけのひとつだ。子どもたちの姿を ー 子どもたちが本能から楽しく、遊びで走っているようすを、じっと眺めてみるといい。 
現在のランナーは、古代人の生存を賭けた戦いでの動きを模倣している。わたしたちは、古代人とはかなり異なるやりかたで、だが同じ人間として、生きるために走ったり、歩いたりしている。走ったり、歩いたりすることで気分がずっとよくなるし、運動不足の解消にもなるからだ。めったに意識されないことだが、ランナーは、生き残るためにサバンナを駆けていたころのアフリカの祖先と、まったく変わらぬ走りをしている。そして、現代のケニアの人々とも、走るという共通点で結ばれているのだ。

もちろん、「なぜ人は走るのか?」って問いに対する最終的な答えが出てるだけど、でも、その問題について考える上で、なかなか示唆に富んでる。

考えてみれば、走ることで人になり、文明が発達するのに伴って一部のトップ・ランナーを除いて大多数の人間は走らなくなったにも関わらず、50 年くらい前から、また走り始めたっていうストーリー自体にも、なんか、魅かれる。それに、ランニングのプリミティヴな快感も、理論化はできてないものの、実感としては知ってるんで、今後、プロでも何でもない 1 人のランナーとして走る上で、また、ランニングという行為について考える上での基本的なベースの部分になってくれそう。


* Related Post(s):

『BORN TO RUN 走るために生まれた』 クリストファー・マクドゥーガル 著
 Link(s): Previous review
史上最強の '走る民族' と言われるタラウマラ族について、ランニング・シューズと人間の足の関係、タラウマラ族とウルトラランナーのレースが交錯する最新ランナーズ・バイブル

0 comment(s)::